PSYCHE

ネタバレがあります。ご注意ください。

PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ)


読了後、何でも出来るような気分になった。何をやっても平気なような気分になった。何をやっても許されるような気分になった。まあ、本当にそんな危ないことを思ったわけではないのだけれど、感覚が麻痺したような感覚になった。何か、乙一の本を読んだときのような感覚だ。

世の中にある人の優しさは有限なのだ

というか、若い…文体にしろ、思考にしろ。ただ単に、この作者が若いのであれば、それも納得できる。けれど、そうでないのだとしたら、恐ろしい。光のカーテンやポックリ病の件は、書き方次第ではどうにも薄っぺらくなってしまいがちなエピソードであるにもかかわらず、なかなか秀逸。私の場合は、光のカーテンではなく、熱した後水に入れてひび割れしたビー玉、あるいは、夏の朝に数十分間だけ家の障子に映し出される松の影、が好きだったし、ポックリ病でなく、突撃ばれいしょんず、の某ボスが夢に出てくるほど怖かった記憶がある。BGMはいまだに覚えている…

いや、これは、ニーチェの花瓶なんです……

本当にとても不思議な登場人物たちを作り上げたと思う。特にナオ。一人でいられる強さを持っているのにもかかわらず、起こっている全てを受け入れられる強さ(まあそれらを強さと呼ぶかは分からないけれど)を持っているのにもかかわらず、幻覚架空の人物に頼ってしまう弱さをも合わせて持っている。それらを隠しているわけではないのにもかかわらず、その深く本質的なところは韜晦として持っている。

その『感じ』のことをクオリアって言うんだ

駿兄。現実と幻覚の橋渡し役。彼がいなくなってから(とはいえナオの中からはいなくなったわけではないけれど)、その境界がなくなる。加速する幻覚。駿兄の行動が、ナオの行動を決定付けているような感覚に陥る。これ以降の狂おしさは異常。

終章。新井先生という現実(まあこの作品の現実の境目なんて、何処にあるのか分からないけれど)が急に入り込むことによって、高揚していた気分が、温度が、一気に冷めた。白けた。けれど

油が入り込んで台無しにしてしまったんだ

ああ、そうか。ナオの視ている幻覚がまるで構造色のようで、そこに現実という油が入ってしまったから、このような感覚を覚えたのかもしれない。だからといって

もう輝かない

というわけではないけれど。

僕は、不思議な息苦しさを感じた

このあと彼はどうなったのだろう。駿兄のようになってしまったかもしれないし、小野田さんのようになってしまったかもしれない。前に進めたかもしれないし、何も得られなかったかもしれない。もしかしたら

この世は全部蝶の夢なんだって

この本自体が、そのような存在なのかもしれない。まあ、それはわからないけれど

PSYCHE

決して面白い作品ではないと思う。けれど、それでも、目が離せない。目を逸らせない。この本を読み終わった後に、この題名はどのように訳せばいいのだろう。どのように解釈すればいいのだろう。むしろ、それすらが、あたかも構造色のようで――――

以下、蛇足的感想。もし、PSYCHE=ナオ、なのだとするならば、もしかしたら、ナオの描いていた絵は、この表紙の絵(おそらくアイ)だったのかもしれない。蝶の羽は、髪の毛に使用しようとしていたのかもしれない。光のカーテンも、暗いところでしか見えない神、エロース、の象徴だったのかもしれない。それとも、扉絵のように幾重もの蝶を描いていたのだろうか。だから、画面がドロドロになってしまったのかもしれない。まあ、何を描いていたのかなんて、もう知る由もないけれど、彼自身の気持ちの象徴なのであろうから、見てみたいとは思う。